コロナ禍で外出を控えた「おこもり」生活が長引いて、生活のリズムを崩してしまい、たびたび眠れなくなっちゃいました。眠ろうと目を閉じるのですが、ネガティブな考えのスパイラルに落ち込んで、ますます眠れないという結構辛い状況が重なり、高齢者のうつ病はこのような状況が引き金になるのかもと思い、このままではヤバイよ。よし「おこもり」はやめだ、外へ出て何かやろうと、カルチャーセンターのプログロム検索などを始めました。
コロナ禍の閉塞状況では、お茶、お花の文科系にはあまり魅力を感じず、身体を動かすのがいいなあと漠然と思っていましたが、あまりドタンバタンもなあ・・・・と、軟弱な男です。
初めから「杖(じょう)」を知っていたわけではありません。
ネットで「杖術」を見つけ、「杖」をつえと知り、ステッキを連想し、小学生の頃、「バット・マスターソン」というステッキを武器にも使うヒーローのTV西部劇のことを思い出しました。
そんな些細な引っ掛かりから、「神道夢想流杖術」「夢想権之助」と、「夢」と「想い」が重なる言葉に立ち止まり、何より「老若男女、身長、体重の区別なく稽古できます」という言葉に魅せられ、意を決して「絋武館道場」を訪ねたのです。
その小さな勇気が私を未知の世界に誘いました。
まず驚いたのは小柄な老人の私でも2~3時間、身体を動かし続けることができた事です。
「やさしい、楽チン」とは違いますよ。鋼の剣に木の杖で対峙し身を守るのです。無駄で不合理な動きは死につながります。先人たちが積み重ねてきた合理的な体のさばき方を教わるのです。理にかなった動作の稽古は体力を無駄に消費しないのでしょう。 私はいつも「力みすぎ、もっと力を抜いて」と注意されていますけどね。
もちろん長い間に身体にしみついている癖を合理的な動作に変えるには、指一本動かすにも意識することが必要とされるわけで、それは全くの知的作業で、その分、頭はへとへと。無意識に正しい動作を身につけることが稽古の目的と今更ながらに気づいたり・・・ ドンクサイ男です。
「姿勢」が良くなりますよ。
頭のてっぺんから、足の先まで意識を巡らせてすっくと立ち、相手に向き合うのです。自分では気が付かないで頭が傾いていたり、重心が後ろに移っていたりと、正しい姿勢で立つことの難しさを知ることになりますが、自分の体を使って相手とまっすぐに向き合うとそこから今まで気づかなかった様々なものが見えてきます。お勧めです。まあやってみなはれといったところですかね。
「気合」で気分がすっきりします。
「気合」は、私にとっては体の毒素を吐き出している感覚です。時に妻の「寸鉄人を刺す」一言で挫けていた気持ちがやわらいだり・・・ストレス解消ですね。だって大きな声を出す機会なんてこの現代社会にそうそう無いですよ。
コロナ禍では「どうしたら納得した人生を送れるのか」なんて禅問答のようなことを考えていましたが、杖を始めた今の私の答えは「自分が自分のやっていることに心底納得できるかどうかだ」と思っています。
私は今年75歳です。「杖」を始めて8ヵ月。身体が動く限り、続けたいと思っています。
※この記事を書いた時は一級取得前でしたが、その後無事に一級、初段と取得し、稽古を積んでいっています。